二人でお茶を ~腕時計の話~ ①

「せんせーバイバーイ!」
「さようならだろうが!」
振っていた手のひらがグーになったのを見て生徒達が笑った。小さくなっていく後ろ姿が見えなくなるまで見届けて、俺・桜木花道二十六歳は急いで自分の荷物をまとめた。今日は恋人の流川が遠征から帰ってくる日だった。
今、俺は学校の先生になっていた。中学校で国語を教えている。部活動はもちろんバスケ部。審判もしないといけないから、経験者は即バスケ部顧問だ。と言いつつ今日は陸上部の応援に来ていた。受け持つクラスの陸上部員の晴れ舞台だったのだ。教員という職業は忙しい。休みはない。あるけどない。毎週何かしらイベント事があってそれに参加している。参加しない選択肢もあるにはあるが、俺にはなかった。教師になりたての頃、先輩教師から「おまえにNOはない。あるのはYESかハイだ」と言われた。あれはインパクト大だった。そんなものなのかと衝撃を受けて、それ以来教えを守って俺にはノーがなかった。動いているのは好きだしそれはかまわなかった。好きでなった仕事なので苦にもならない。ただなかなか恋人に会えないのだけはつらかった。
流川は、順調にバスケを続けていて今はプロバスケチームに籍を置いている。近くに住んでいるから、行き来はすぐにできるけど、飯も食えないほど忙しい時期は本当に会えなくなる。特に流川は今をときめく人気バスケットボールプレイヤーだからとにかく忙しくしているようだった。あいつが「忙しい」と言ったことはないけど、誰がどう見ても忙しかった。試合に加えてバスケの伝道師みたいな仕事もあるみたいで、バスケの面白さを子どもたちに伝えるためとかで県外の小学校に出向いていくこともたまにあった。現に今も、それと試合が重なってもうかれこれ十日くらい会ってない。
神奈川に戻ってくる日は、流川は直接俺の家に寄ることが多かった。行くという連絡があって来ることはほとんどないが、経験で知っていたので今日も俺は急いで家に帰った。
俺が家について三十分くらい経って、ピンポンとチャイムの音が鳴った。やっぱり今日も来た。時計を見ると八時、遠征先からそのまま来たようだ。
ドアを開けると、前屈みになって靴を脱ごうとする男と目があう。少し伸びた前髪の隙間から覗く目はお休みモードの目だ。
「どこで靴脱いでんだよ」
「ん」と手に持っていたビニール袋を俺に渡して、自分はでかいカバンを担ぎ上げ勝手知ったる様子で、さっさと家の中に入っていった。

 流川は基本的にソファーが定位置だが、今はテーブルについていた。十畳くらいの部屋の真ん中にあるテーブルは昔から使っているもので、俺たちのようなでかい二人には少々狭い。椅子はとっくに壊れて買い替えた。テーブルも一緒に買えばよかったが、壊れてもいないのに買い替えるのは気が引けてそのままだ。その狭いテーブルについて俺の方を見ながらぼんやりしている。そんな男を見ながら俺は牛乳を鍋に入れてあたためていた。流川は俺を見ているような、部屋を見ているような、幽体離脱しているような・・・・・・。
「お前、今回どこ行ってたんだ」
「・・・・・・・・・・・・みやげ」
 それを見ろ、と言うことだろう。どこ行ってたか忘れやがったな。さっき渡してきたビニール袋から中身を取り出す。ねぶた漬、せんべい汁、りんごかりんとう・・続々と出てきた。ずいぶん買ってきたなこいつ。
「青森か」
小さく頷いた後に、クアッと大あくびをかます。オレは呆れる。あくび男はそのまま背中を丸めてテーブルにぺたりと頭を乗せた。かち合った目はトロンとしていた。ハードスケジュールだったのか、ずいぶん眠そうだ。それでも寝ないのは待っているからだ。
「ほら」と砂糖と牛乳がたっぷり入ったコーヒーを出してやる。すぐに姿勢を戻して飲み始めた。もはやコーヒーとは呼べない量の砂糖と牛乳が入ったそれは題して流川スペシャルだ。遠征帰りにこれを出してやると喜ぶ。俺は甘すぎて絶対飲めない。前に一度作ってやって以来大好物になってしまったようだ。飲みながらマグカップの底を見つめている。
「お前もう寝るか?飯は?」
「食ってきた」
昨日の夜、一緒に食べようと沢山の煮物を作っておいたがそれは食べられることはなさそうだ。さっき流川が帰る前に腹が減っていたのでつまんだのだが味がしっかり染みていてとても美味しかった。仕方ないから、明日の朝にまわしてやろう。本音を言えば、「食べて帰る」と連絡をよこして来るのが一番いいけど、そんなもんは早々に諦めている。連絡のマメな流川ってのも気味が悪い。
「じゃあ俺だけ食うかな。あーもう、お前そんなに眠いなら風呂入ってこいよ。沸いてるぞ」
言ってて自分で母親みたいだなとちょっと恥ずかしい。
「メシってなに」
「筑前煮」
「食う」
「お前も?」
頷いたので、「んだよ、食ってきたんだろ」と小言を言いながら立ち上がる。でも本当は嬉しい。
鍋を温め直そうとガスレンジの火をつける。流川が買ってきたねぶた漬とやらもだしてやろう。しかし変な柄のパッケージだ。あいつ、これをどんな顔して買ったんだろうか。少し笑ってしまった。いつの間にか流川が間近に立っていた。オレの首を見つめている。
「なんだよ」
「黒い」
ん?と思って見つめられているあたりに手をやる。
「首の後ろだけ黒い」
「ああ、練習試合があったから。後ろからえらく太陽感じたけどやっぱりこの時期でも焼けるか」
「バスケ部のセンセーなんじゃねえの」
「ああ、かり出されたんだよ。テニス部の顧問の先生に頼まれたんだ。なんか子どもが急に具合悪くして、どうしようとなったところに颯爽とオレ登場。隣りのクラスのよしみもあるし、テニス部はオレのクラスの奴らも多いしちょうど、ン」
しゃべってる最中にもかかわらず、やわらかいので口を塞がれた。牛乳の味がした。
「おまえ自分から聞いたくせに途中で」
またふさがれた。流川の目がいつの間にか動物みたいになっている。さっきまであんなに眠そうだったのに。なんだか俺まで熱くなってきた。向かい合って長いキスをする。熱さが全然おさまらない。あたりまえか。
「・・・・・・おまえ明日は?」
尋ねる自分の声が掠れていた。「休み」と言いながら流川がまたくっついてくる。流川はキスが好きだった。めったに使わない口もこんな時はしっかり動く。熱心に求めてくるのに応えながら俺の手はまずガスの火を消して、それから流川の服を脱がしにかかった。「なにやってんだ?」
居間で一回風呂場で二回ふたりして汗をかいた後、先に出た流川は寝室の真ん中で立ちん坊になっていた。入って良い布団があるところで寝ていないなんて奇跡だった。聞いているのに返事がなくて、「なんだよ」と顔を見たらえらく危ない顔をしていた。物騒な視線を一緒に辿るとベッドの傍らにある雑誌に行き着いた。見るからに女性誌。しまった。慌てて拾い上げてサイドボードの引き出しにしまいこむ。
「なんだいまの」
「雑誌」
「テメーあんなもん読まねえだろ」
「読むときだってある!研究だ!もういいから、寝るぞ。オレはねみいよ」
「帰る」
部屋を出ていこうとするので慌てて腕をつかむ。ぜったい何か変な誤解をしている。
「あほかお前!」
言うと同時にいきなりグゥを腹にくらう。ウグッ・・・・・・。
俺たちは二十三歳になった時、ケンカはしても顔はやめようねと話し合った。顔の傷はお互い社会的になかなかやばかった。その約束が守られて腹にパンチを食らったわけだが、どこだろうとこいつのは痛い。特に今のは容赦がないやつ。そのままさっさと部屋から出て行ってしまった。あれは本当に頭に来てる様子だ。ちょっとやそっとじゃ機嫌は元に戻らないだろう。しょうがないので奥の手を使う。腹を押さえてアイタタとうずくまってオレはその姿勢で固まった。居間の方で物音がする。帰ろうとしている音だ。イチかバチかだなあと思いながらもそのまま丸まっていると、やがて足音が近づいてきた。静かなオレの様子を心配してきたのだ。上の方から言葉が降ってきた。
「タヌキ寝入り」
なんとなく言いたいことは分かるが違うだろ。国語の先生として訂正したいがぐっと我慢だ。まだ起きあがらないオレに「・・・・・・うそ泣き」と言ってきた。タヌキ寝入りよりは近いなあと思いながら、それでも動かないでいると、流川が屈んだ気配がした。背中にかすかに流川の手を感じたところでがばりと起きあがる。やっぱり!という顔の流川を前から捕獲する。
「離せ」
「おまえはあほか。あれはオレが本当に買ったんだ」
恥ずかしい思いをした。若い女の店員さんの視線をチラチラ受けながら、いたたまれない思いで買ったのだ。
まだ信じていない顔の流川にため息がでる。しょうがない、絶対にイヤだったけど白状するしかない。このままへそを曲げて帰られたらつまらねえ。
「お前、自分の仕事くらい把握しとけよな」
帰られたら困るので流川の片腕を掴んだまま立ち上がり、先ほどしまった引き出しからもう一度雑誌をとりだす。開きグセのついたページを広げて放り投げる。いやそうにそれを一瞥してさらにいやそうな顔になる。ひどい顔だ。
「・・・・・・なんだこれ」
「おまえだろ。お前、雑誌とか載りやがって。載ったら載ったって言え」
「しらね」
「取材は受けたんだろ」
「・・・・・・忘れた」
ぷいっとそっぽを向いた。まだいじけてるのか。
十年に一人の天才、端正な顔、抜群のスタイル、寡黙な性格などと言われて流川は国民的スターになりつつある。毎月何かしらの雑誌に出ている。最近ではスポーツ誌に限らない。現に今回俺が買った雑誌もまったくスポーツとは関係ない雑誌だった。だからまあ流川が変に疑ったのも無理はない。テレビには今のところまだ出てないが時間の問題じゃねえかなと思ってる。ここまで来たらオレももう達観している。華やかな扱いをされ続ける奴ってのはいるもんなのだ。そういう人生って本当にあるんだなといった心境だ。流川は流川でそういう扱いを特段いやがってもいない。いやがっていないと言うか自分が他人からどう見られているかなんてことにこれっぽっちも関心を持っていないようだった。そういうところは相変わらずだ。それに取材される方がされる方なら読む方も読む方だった。どのインタビュー記事も、写真は判で押したような顔ばかりだし、取材内容はコピペかと疑いたくなるくらい同じ内容ばかり。それでも取材の依頼が絶えないと言うのだから、中身なんてどうでもいいんじゃねえかと俺は思ってる。
「なんでテメーがこれ持ってんだ」
「だから、買ったんだって。クラスの女子生徒が持っていたのを没収した時にお前が出てることに気づいて。ふーん、どんな間抜け面かじっくり確認してからかってやろうかと思って」
ぺちっと肩を叩かれる。
本当はちょっと違っていて、オレのクラスのバスケ部女子達が「先生、流川さんのこと知ってるー?」と見せてきたのがきっかけだった。チームメイトだったことをどこかで聞きつけたのだろう。高校の頃から聞かれ続け一生分聞かれたとあの頃は思っていたが、甘かった。大人になってもまだ聞かれている。何回分の人生生きてるんだってくらい聞かれている。そしてその時見せられた写真につい心が動いて、その日すぐに本屋に寄って買ってしまった。いつもよりちょっと良い顔してたのと、流川の遠征とオレが忙しいのとで会えない期間が長かったからつい・・・・・・。
「・・・・・・ここに置いておく方がわりい」
ばつが悪いのかそんな文句をぽつり言われて、呆れ果てる。むしろなぜここにあるのか、そんなことも分からない鈍感男の頭をはたく。何時だと時計を見たら十二時を回っていて、時間を見てさらに疲れた。なんでこんな夜中にプロレスまがいのことをしてるんだ。俺はもうねみいよ。ベッドに潜り込む。少し経って流川ももぞもぞと入ってきた。寝やすいように枕を叩いて形を整えている。頭を置いて五秒で寝るくせに、横目で見ながら笑ってしまった。そういう俺もすぐに睡魔が襲ってきた。朝から動いてくたくただったので気持ちよく眠りについた。一日のおしまいに流川がいるのはやっぱりいいなと思いながら。

>>腕時計の話②